腐る手前が一番うまい

 「腐る手前が一番うまい」は、昔からよく聞く言葉ですが、最近では、熟成肉とか、熟成マグロとか何でも熟成させることが流行っています。このように果物も肉も時間と共に熟成し、そして腐るのですが、その間には厳密な境界線があるわけではなく、少しづつ連続的に進行していくので、今だ、今食べろ、今収穫しろ、と時期を正確に断定することは困難です。

 ただし多くの果実は収穫後も成熟する性質(追熟)を持っているので、ある程度熟度をコントロールすることが可能です。追熟型の果実は、呼吸型がクライマクテリック型となっており、呼吸活性が、幼果期は高く発育に伴って漸減するのですが、後熟段階になって、もう一度呼吸活性が増加します。この時並行してエチレンの生成が顕著に増加します。発育途中の果実に人工的にエチレンを処理すると呼吸活性が増加すると共に果実自身からのエチレン生成が誘導され成熟が進行します。逆に成熟開始直後の果実にエチレン作用の除外剤を処理してエチレンの生成を阻止すると呼吸活性が低下し、成熟が止まります。このように人工的にエチレンを処理することによって成熟をコントロールすることができるのです。よく家庭で、成熟していないキウイフルーツを袋に入れて、そこにリンゴを加えることでキウイを成熟させるのは、まさにこの性質を利用しています。

 もう一方は、樹上でしか成熟しないのが非追熟型果実で、こちらは呼吸型が非クライマクテリック型となっています。呼吸活性がクライマクテリック型と同様、幼果期は高いのですが、発育に伴って漸減するのみで、エチレンも殆ど生成されません。ここに人工的にエチレンを処理しても果実自身のエチレンの誘導はみられません。ただし呼吸活性の増大と果肉の崩壊などは起きます。レモンなど一部の非追熟型果実では、催色処理としてエチレン処理が用いられているようです。

 熟度コントロールが可能な追熟型(クライマクテリック型)果実は、リンゴ、バナナ、セイヨウナシ、キウイフルーツ、モモ、アボカド、パパイア、マンゴー、イチジク、カキなど。非追熟型(非クライマクテリック型)果実は、柑橘類、黄桃、パイナップル、ブルーベリー、そしてブドウなどです。二ホンナシは品種によって異なり、幸水や菊水は追熟型、二十世紀や新高は非追熟型に分類され、非追熟型はエチレン生成量に深く関与するACS遺伝子の一部が欠損しています。

 因みに、追熟型非追熟型の違いは、果実を食べて種を運んでくれる動物との進化的相互作用によって生まれたようです<深野祐也 東京大学 Evolutionary ecology of climacteric and non-climacteric fruits/Biology Letters>。追熟型果実は、木から落ちてから成熟が加速し、また種子が大きく果皮が緑や茶色であることから、主にタヌキやイノシシなど地面を徘徊する動物に食べられ種子が散布されます。非追熟型は、木の上で成熟し、また種子が小さく皮が赤や黒色であることから鳥やコウモリなど樹上性の鳥類に食べられ散布されます。子孫繁栄のために、食べられ、種子が広まりやすいよう特徴が2種類に収斂したようです。人間が勝手に品種改良したナシでは追熟型と非追熟型の両者が存在するというのは納得です。

 ところで、追熟型非追熟型いずれの果実でも、適度に熟成が進行したとして、その後の流通や貯蔵が問題となります。一般的に青果物は、低温貯蔵、低温流通が用いられていますが、その他に、低酸素環境に果実をおくことで貯蔵期間を延ばす方法も利用されています。これは、環境中の酸素濃度を低下させると、呼吸活性が抑制され、さらにエチレンの生成段階のACC酸化酵素による酸化過程も抑制することからエチレン生成も抑制されるからです。ただし、酸素濃度を低下させると比例して二酸化炭素排出量も低下するのですが、ある一定量を下回ると逆に二酸化炭素排出量は上昇に転じ、嫌気呼吸(代謝異常)を誘導するため、このターニングポイントである限界酸素濃度付近を維持することが重要となります。また、二酸化炭素濃度を高めることは、エチレンの生成や作用を抑制することが分かっており、その結果PEPカルボキシラーゼによる有機合成系を促進し、果実の有機酸レベルを高く維持するという説もあります。さらに、過度の高二酸化炭素環境は、細胞内のpHの低下や一部の酵素阻害による代謝異常を誘導することもあるようです。ということで、青果物の運搬や貯蔵には、適度な低酸素高二酸化炭素環境を見極めることが必要になります。

 さて、非追熟型のブドウについてです。ブドウは追熟しないので、木の上で完熟させてから収穫したいのですが、その見極めが難しく、遅らせれば病気や食害による腐敗リスクが高まります。しかしここで、先の低酸素高二酸化炭素環境での貯蔵を用いれば熟成をコントロールできるかもしれません。追熟型のエチレンによる成熟とは異なるかもしれませんが、成熟を、生理的変化による成分変化と定義すれば、低酸素高二酸化炭素環境下の成分変化も追熟の一種(疑追熟)と見做すことができなくもなさそうです。もし変化した成分がワインとして有効であれば、それは腐敗ではなく成熟と言ってもよいのではないでしょうか。少し早めに収穫して非追熟型であるブドウを擬追熟させるという方法は十分価値ありと考えます。そうです。ボージョレ・ヌーヴォーのマセラシオンカルボニックは、まさにこれです。

 もちろん、腐敗と成熟は紙一重であり、リンゴやセイヨウナシでは、低酸素高二酸化炭素濃度を誤ると、代謝異常が誘導されエタノールやアセトアルデヒドの蓄積をともなうガス障害が発生し(まさに発酵)、果心部がハート状に褐変するブラウンハートと呼ばれる不良品になってしまいます。

 ワインにする場合、こうした障害・代謝異常が有効なのか有害なのかケースバイケースだと思いますが、もし、岐阜の気候下でメルローの完熟を諦めざるを得ないとすれば、メルローの疑追熟(マセラシオンカルボニック)に幾分かの可能性を見出すことは十分あり得るでしょう。ただしその場合、きちんと房を潰さず(細胞を破壊せず)タンクに投入し、十分に二酸化炭素を充満させる必要があります。これはこれで厄介です。

 それはさておき、「腐る手前」ですが、ワインには不思議な世界があり、若干のいわゆるオフフレーバーはワインに複雑さや奥深さを与える有効な成分であるという見方があります。例えばロマネコンティを飲んだことのある友人は、野獣の香りがしたと言っています(それがよくある4-エチルフェノールなのか、得体のしれない凄い化合物なのかはわかりません。どなたか分析した人はいるのでしょうか。)。特に偉大なワインにはある種の臭みが必要なのでしょう。確かに、人間と同じ哺乳類の犬は散歩に連れ出せば臭いにおいに夢中ですし、臭い何かに体を擦り付けたりもします。人間も、有名な香水にはほんの僅かにスカトロ臭が混ぜてあると聞いたことがありますし、納豆やクサヤや熟れ寿しなど、好きな人には堪らない臭さが確かに存在します。妖艶な香りとかエロい香りとか万人に共通するかどうかわかりませんが、動物的にそそられる匂いがあることは確かでしょう。ただしこれをワインの中に意図的に適量発生させることなど殆ど不可能です。「腐る手前」という魅惑の世界は、同時に地雷だらけの魔界でもあり、とても足を踏み入れることはできません。

 その意味で「腐る手前が一番うまい」は神業と言えるでしょう。

(2024/1月)