ワインの飲み頃を見極めることは、非常に難しく、いつ飲もうか悩んでいる方も多いと思います。ベストのタイミングがあるのかどうかもわかりませんし、飲んでしまえば答えは分からずじまいです。元来、熟成とはどんな現象で、いつ始まりいつ終わるのか理解することができないのですから、答えが無いのは当然です。
例えば教科書では、熟成に関連する説明として、次のように書かれています。
・ポリフェノールの重合は、はじめの段階では苦渋味が増加し、さらに重合が進めば苦渋味が減少し、さらに反応して不溶化し、苦渋味が消失する。
・熟成によって、エステルが生成され、酒石酸が沈殿する。エステル化(酸とアルコールの反応生成)によって、酸のカルボキシル基がなくなるので酸味が弱くなる。
・熟成が進むと、エステルは徐々に加水分解され、元の酸とアルコールに戻り、果実香は消える。と同時にエチルエステルの合成がなされる。例えば、酢酸イソアミルの分解が起こり、一方でコハク酸ジエチルの生成が生じる。ワインのブーケに大きな寄与は無い。
・重要な芳香成分テルペンは、熟成に伴って消失する。
・酢酸イソアミルや酢酸ヘキシルのような酢酸エステルは0℃でゆっくりと、30℃では急速に加水分解される。対照的に芳香性の低いエチルエステルは30℃で急速に生成し、0℃では無視できるほど少ない。
・クラスター構造の水(水素結合を介して水分子がクラスターを形成)にエタノール分子が入ると、エチル基部分をクラスターの網状構造の隙間部分に突っ込んだ形で水に溶解する(だから体積が減る)。熟成が進むと、エタノールの疎水性部分(エチル基部分)がクラスター中の水分子の網目構造に埋もれてエタノール分子を水分子が包み込むようになる。だからエタノールが舌に触れ難くまろやかになる。
・ビン熟成初期は、微還元状態(酸素2~5ppm)で、酒石酸、リンゴ酸、乳酸、コハク酸がエタノールと反応してエステルになる。酸素が無くなると、フェノール性の香りが形成され、さらにビン熟すると、還元的なイオウ化合物ができる。
このように熟成とは、様々な化学変化を総合したものです。それにしても不思議なのは、熟成というこれらの化学反応が、非常にゆっくりとしか進まないことです。化学反応であれば、ギブスの自由エネルギーが減少する方向にさっさと進むはずですが、なぜか、年単位の長い時間がかかります。さらに、通常、化学反応は、エントロピー増大の法則に従って、分散したり発熱したり、秩序を乱す方向に進むはずですが、熟成は、刺々しさが無くなり円やかになる変化であり、秩序が増す方向のように感じます。なぜ、熟成は、ゆっくりと進行するのでしょうか。そしてバラバラになるのではなく、整って行くのでしょうか。
まず、エントロピー増大の法則について、考えてみます。「外部とのエネルギーの出入りがないとすれば、始めの状態と終わりの状態との間の系全体の内部エネルギー変化はゼロであるが、それでも自発的に変化は進んでいく。」「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない。」これが、エントロピーが増大する様子です。エントロピー増大の法則とは、別の言い方をすれば熱力学第二法則であり、「熱が自ら低温の物体から高温の物体へ移動することはない」あるいは「循環過程で熱を熱源からとって仕事に変えようとするとき、低熱源へ熱を移動させずに仕事に変えることはできない」となります。さらに別の言い方をすれば、「自発的変化はギブズの自由エネルギーが小さくなる方向に起こるが、内部エネルギーと圧力×体積と温度がともに変化がなければ、エントロピーが大きくなる方向へ変化する。」ということになります。
例えば、水素と酸素を混ぜると爆発的に反応して水になります。2種類が1種類に減るのでエントロピーが減っているように見えますが、大きな熱と音を出しますから、これを合わせるとエントロピーは増大しています。10円玉は通常、赤黒くくすんでいますが、これは銅が酸化銅に変化しているためです。この10円玉を熱して、水素が入った容器に入れると、10円玉は綺麗な金属光沢を取り戻し、同時に容器に水滴が付きます。銅と酸化銅のエントロピーはほとんど変わりませんが、水素より水蒸気のエントロピーの方が大きいので、全体のエントロピーは増大しています。このように、酸化反応にしろ、還元反応にしろ、エントロピーが増大するのであれば、自動的に反応は進行します。
因みに生物はこの点で不思議なシステムです。熱を外部から得ることなく、また熱を外部に大きく排出することなく、体温を一定にしたまま仕事をしていますが、エントロピーが低い状態を維持しています。これは、食物などの形でエントロピーの低い物質をエネルギー源として取り込み、体内の秩序だった代謝過程を経てエントロピーレベルの高い物質として体外に排出しているから成立するのだそうです。
さて、ワインに戻ります。ワインの貯蔵タンクあるいはワインの入ったビンは、冷暗所で静置されていますから、熱やその他エネルギーの供給はゼロです。また、熟成中にワインの温度が勝手に上がってしまうということもありません。容量も圧力も変化がありません。その中で反応が進むとなれば、エントロピーが増大する方向、つまり秩序が無くなる方向にしか反応は進みようがありません。はたして、先ほどの熟成の説明例は全てエントロピーが増大する反応に該当するのでしょうか。事例の中には、○○を生成するという反応もあります。2分子が1分子に結合し、自由度を減らしている反応もあるのではないかと勘繰ってしまいます。しかし間違っても熱力学第二法則・エントロピー増大の法則に反することはできません。
ここで思い浮かぶのが、タンパク質の「フォールディングファネル」という考え方です。酵素は、ある物質を別の物質に変身させる不思議なタンパク質(ポリペプチド(アミノ酸がアミド結合したペプチドが数十以上長く連なった生体高分子)が特定の立体構造をとった物質)です。タンパク質は力が加わり破壊されると、立体構造が崩れ機能を果たせなくなります。この状態はエントロピーが大きくなった状態であり、この方向へ自然に反応が進みます。機能を取り戻すためにはもう一度、立体構造に折り畳まれる(フォールディングされる)必要があり、この時エントロピーは小さくなる必要があります。つまり熱力学第二法則に基づけば、折り畳みは起こらないはずです。しかし驚いたことに折り畳みが進行することが実験的に確認されています。これは、エントロピーの減少分をエンタルピー(内部エネルギー+圧力×体積)の減少で補う(ギブズの自由エネルギーは小さくなる)原理によって成立しているとのことです。これを、内部エネルギーの漏斗に流れ込むようにして起きる現象だとイメージできることから「フォールディングファネル」と呼びます。
タンク内部の内部エネルギーを小さくすることにより、解けた酵素が再び立体構造を取り戻すことができれば、物質AをBに変身させるという機能を取り戻し、一見して熱力学第二法則に反するようでも、いわゆる熟成の反応を進行させることができることになります。もし、熟成の反応が、通常のエントロピーが増える(ギブスの自由エネルギーが小さくなる)反応だけであるならば、ワインを静置するのではなく、ミキサーでかき混ぜた方が反応が早く進むはずです。でも実際そんなことはせず、安定した温度の樽貯蔵庫で静かに長時間保管して熟成を促進させることが常識です。この秘密は、フォールディングファネルにあるのではないかというのが造り手の勝手な想像です。もちろん、酵素反応自体は、普通の化学反応と同じくエントロピーを増大させる化学反応なのですが、通常の化学反応は外部エネルギーを供給しない限り(きっかけを与えなければ)反応が進まないことが多いのに対し、酵素反応は、常圧常温でも局所的にエントロピーを減少(合成)させることが可能なので、酵素反応の方がワインの熟成に影響が大きいのではないかと思っています。
因みに、漆塗りの食器や家具は、新品でも美しいのですが、年を経るとともに異なる陰影の美しさが生じます。漆器の魅力の一つはこの変化の美しさにあります。これは、漆の主成分であるウルシオールという樹脂を重合させるラッカーゼ酵素が引き起こしています。ゆっくりと酵素が反応を触媒するという漆塗りの変化は、ワインの熟成に近いメカニズムなのかもしれません。
さらにその先に目を向けてみましょう。なぜ酵素には常温常圧の平凡な環境でAをBに超高速で変身させるという超能力があるのでしょうか。この点は、どうやらエネルギーの壁を通り抜けるトンネル効果など量子力学がからんでいるようです。こうなると造り手には全く理解できません。しかし、生物の代謝は殆どが酵素反応です。つまり命は、量子力学を使わなければ説明できないということであり、何とも不思議で釈然としない世界です。とにかくこのようして、ワインは熟成中にバラバラに分解されるのではなく、秩序を取り戻しているのではないかと妄想している次第です。
この理屈からいうと、内部エネルギーもしくは圧力×体積を小さくしてやれば、熟成が早く進むと考えられます。では、任意にこれをコントロールのできるのでしょうか。造り手は、興味津々で、あの手この手でチャレンジしています。乞うご期待。
(2023/1月)