日本人の平均寿命は、縄文時代で15歳、飛鳥・奈良時代で30歳、江戸末期で45歳、そして1950年で60歳、2000年で81歳、2020年で男性81歳女性88歳、2050年になると男性84歳女性90歳になるそうです。
畑を見渡せば、生物の寿命は、昆虫や草など1年以下という短命が非常に多く、その次にキツネやタヌキの数年、大型の鳥であるトビやサギで10年20年、そしてブドウをはじめ樹木が数十年から数百年と長短様々な種が存在します。しかし何れの生物も、生殖活動ができなくなれば死ぬというのが基本です。中には、カマキリのオスは交尾中にメスに食べられ、ハサミムシのメスは抱卵後孵化した子供に食べられるというように、死んで子孫に身を捧げる生物さえいます。このように生物は遺伝子の乗り物として遺伝子を途絶えさせないために、生殖が終われば、あるいは子孫が一人前になれば不要の長物である親は死ぬよう進化してきました。しかし、人間という生物は異常です。子供を産んでも、さらに子供が一人前になっても、さらにその2倍近く長生きします。
人間は、栽培、養殖、畜産など一次産業を発展させ、食料を自ら作ることで、老人を含め食べることに不自由しなくなりました。現代では、老後に悠々自適の隠居生活を送ることが普通になっています。しかし、本来生物として異常なのですから、この状態が長く続くとは限りません。
特に少子高齢化先進国日本では、社会保障が賦課方式なので、数が多い老人世代が、数が少ない子供世代に重い負担を強いており、子供世代がその子供を作れないという生物界では考えられない悪循環に陥っています。それでも寿命は延び続けるのでしょうか。それとも普通の生物に戻るのでしょうか。
方向性としては二つ。一つは普通の生物と同様に、子供が一人前になれば寿命が尽きるよう仕向けるという方向。具体的には、安楽死、自死等の推進を議論することです。でも言葉を獲得して自意識過剰になった人間は、そう簡単に自らの寿命を縮めることに賛同しません。とことん普通ではない厄介な生き物なのです。
そして、もう一つは、老後も子孫の役に立ち続けるという方向。日本では、明治時代の後期に一部の大企業 で定年制が始まり、永らく55歳定年制が続きました。1985年に高年齢者雇用安定法によって60歳定年が努力義務となり、1998年から60歳定年が施行されました。その後、2013年に成立した改正高年齢者雇用安定法により、65歳までの雇用確保措置の導入が義務化されています。2019年に会社を辞めた僕は、当時、60歳で定年延長を選択し会社で働き続ける先輩を眺めていました。先輩の姿は、不躾に申し上げれば、給料を手にするために仕方なく消化試合をこなす消えない老兵に見えていました。もったいないことです。今や健康寿命は75歳。異常に寿命を長くしてしまった人間は、子孫繁栄に役立つために、死ぬまで価値の創造を続けなければならないのです。
とはいえ、75歳まで50年以上も同じ会社で同じ仕事を続けるということは余りにも退屈ですし、若い後輩に先を越され続けると萎えてくるでしょう。また、能力も体力ある若い企業戦士に、付加価値の高い仕事を任せなければ、会社全体として生産性が落ちてしまいます。当然、一つの会社の中には、利益の源泉となる付加価値の高い仕事と、付加価値が低く誰でもできるが誰かがやらないといけない仕事があります。老人は安い給料で誰でもできる付加価値の低い仕事を担当すればよいのですが、そんな仕事は多くは存在しません。
そこで目を転じて日本全体を考えてみましょう。稼ぎ頭は、工業でGDPの4分の1を占めます。高度な技術開発力、ものづくり力で世界を相手に競争優位を持続させ、高い生産性を示しています。リカードの自由貿易論・比較優位を持ち出すまでもなく、日本の優秀な若者にここで活躍してもらわなければ日本はますますジリ貧になってしまいます。ところが、現在、若者は日本の成長産業である医療介護(老人のお世話に)に吸い取られ、特に優秀な若者が医者となって老人の寿命延長に精を出す始末です。肝心の工業は人手不足に窮しています。ますます生物としての異常さを助長する様相です。
これに対し、農林漁業はGDPの約1%、生産性は全産業平均の約4分の1で最低水準となっています。しかし当然ですが、生産性は低くとも、誰かが食料を作らなければ、人間という生物は死んでしまいます。でも、日本としては比較劣位の産業に注力することは合理的ではありませんし、そもそも稼ぎが少ない産業に若者が目を向けるわけがありません。因みに比較劣位というのは、絶対的に生産性が劣るということではなく、相対的に工業と比較するれば生産性が低いということに過ぎません。いくら高品質の食料を生産したとしても、国民全員が毎日必ず購入し消費しなければならず、また毎日の消費量には上限がありますから、売値も販売量も限度があり、生産性(産出/投入)の向上は分母を小さくするしかないという意味で、元来、相対的に儲けるには不利な産業なのです(ワインは農産物でありながら例外的に品質よって高値が許容されています)。その結果、人間の生死を左右する産業でありながらGDPの1%に止まっているということなのでしょう。最近は、経済安全保障などと言って、自給率の向上が叫ばれていますが、実際のところ、アメリカ、カナダ、オーストラリア等からの輸入が急停止されることを想定するのは過剰なリスクヘッジであり、中国など関係性が不安定な国からの輸入品についてだけ手当てしておけば良い話だと思います。
話がずれてしまいました。本題の、長寿命生物である人間を持続させるため、老人が子孫の役に立つその具体的方法についてです。すなわち、必然的に生産性が低く、しかし必要不可欠な農林漁業を老人が担うことが最も合理的といえるのではないでしょうか。ところが現在、農林漁業従事者の高齢化が問題視され、政府は若年者の農林漁業新規参入を補助金等を使って推進しています。これでは日本全体の生産性を落としてしまいます。若者には比較優位の産業でガッツリ稼いでもらわなければならないのです。そこで寿命が長くなり、暇を持て余している老人が、稼ぎが少ないことを厭わず、老人だけで農林漁業で活躍していただければ十二分に子孫の役に立つことになります。ということで現状の農林漁業従事者の高齢化は正解なのです。
しかし現状がベストではありません。問題は山積しています。まず、生産性については不利な条件が揃っているとはいうものの、改善の余地は膨大です。農業を例にすれば、老人が趣味として家庭菜園で土いじりというのは論外として、ビジネスとして成立させるためには規模の拡大は避けられないでしょう。労働生産性にしても、設備生産性にしても、あるいは土地面積当たりの生産性にしても、一カ所当たりの田畑の面積を拡大し、大型の設備で大量生産した方がムダが少ないことは明らかです。アメリカのカーギル・ADM・デュポン・モンサントなど巨大農業企業は別世界ではなくすぐ隣に存在しているのです。規模拡大のためには、中山間地の狭小農地は捨てるべきですし、さらに、共同従事者数の規模を拡大して設備稼働率を上げる必要があります。また、農業はどうしても季節による繁閑の変動が大きいのですが、規模を大きくして農産物の種類を増やせば、あるいは農業以外の季節性のある仕事と組み合わせれば、繁閑の変動を小さくすることができます。さらに、老人集団ですから、病気や死亡の発生率が高いので、尚更その補充を予め準備する上でも共同従事者数は多くなければなりません。当然このように規模が大きくなれば、いわゆる科学的企業経営が不可欠となり、個人的には株式会社等法人の農業参入規制を大幅に緩和することが必要であると常々思っています。
生産性向上の他にもう一つの問題点は、年齢です。健康寿命が平均75歳だとしても、大きな個人差があります。また、定年が65歳となると、元気に働けるのは残り10年です。20歳から65歳まで45年同じ会社で働いて来たとすれば、45年と10年ではアンバランス過ぎます。比較優位産業の稼ぎ頭として活躍できるのが、55歳までの35年、ここで稼ぎ頭を後輩に譲り、残りの20年を比較劣位だが必要不可欠な低賃金産業でさらに活躍するというのが良い塩梅ではないでしょうか。これを年齢別最適労働移動と言います。僕が勝手に名付けました。
さらに付言すれば、農林漁業は体が資本です。いくら体力負担が少ない設備を導入したとしても、エアコンの効いた部屋でデスクワークというわけにはいきません。そして老人です。現場で倒れる確率はかなり高くなります。しかしこれは悲劇ではなく、これこそが、本来の生物の姿であり、普通の最期です。死ぬ間際まで子孫(自らもしくは近縁の遺伝子)のために尽くすことは、生物・人間の本望だといえます。
たまたま僕は、この年齢別最適労働移動に乗っかっています。人生の消化試合に陥ることなく、子孫のために、皆さんに喜ばれるワインをつくり続け、そして畑か醸造所でピンピンコロリすることが、僕の最終的な夢です。
(2024/1月)